中埜半六家とは
中埜半六家は、江戸後期から明治初期にかけて、海運業や醸造業などで富を築いた、代々の半田の富豪です。
尾張藩御用達在郷十人衆に選ばれた、尾張でも抜きん出た名家で、尾張藩主を迎えるための御成間を邸内に常設していたと言われています。
六代目半六は小鈴谷村の盛田家から養子に入った人で、盛田久左衛門の息子、つまり幕末の有名な盛田命棋の兄にあたります。この六代目は名古屋の秦滄浪に経学を学び、帳簿その他事務の整理が巧みでした。自分が考え出した簿記法(現在の複式方に似ている)があり、それが小栗冨治郎家や井口半兵衛の諸家に伝わったそうです。
中埜又左衛門家とともに、半田運河一帯の整備に取り組み、近世以降の半田の大発展の原動力になりました。
なお、中埜半六家もミツカン酢を創業した中埜又左衛門家もともに、中埜半左衛門家の分家で、半左衛門家が中埜一統の本家にあたります。
半六邸建物と時代背景
半六邸には、敷地900坪の中に母屋や離れ、茶室、職人小屋、蔵4つに及ぶ建物群が残っていましたが、現在、離れ、茶室、職人小屋はありません。
明治22年に母屋を数寄屋造りに増改築して完成しました。
翌明治23年には、陸海軍統合大演習が行われ、明治天皇が行幸された折、半六邸は御典医の宿泊所となり、北隣の小栗冨治郎邸が大本営となりました。
現在、冨治郎邸は雁宿公園に移築されています。
かつて半田のまちが、どこよりも隆盛だった明治の頃が偲ばれる歴史的建築物は今では数少ない希少なものです。
戦後は料理旅館として使用された後、大相撲名古屋場所の際、二所ノ関部屋の宿舎として使用されたこともあり、横綱大鵬の勇姿を半六邸で目にした市民も多くいましたが、これ以後、門は閉ざされ半六邸は30年に及ぶ眠りにつきます。
名鉄知多半田駅前にある旧中埜家住宅は、大正時代の初めに建てられた半六家のドイツ風別荘で、現在国の重要文化財に指定されています。
2000年頃の半六邸の写真
半六邸保存活動年表 2001~2012
- 2001年
- 半六倶楽部による新世紀お茶会を皮切りに、桃の節句、端午の節句など季節のイベントを行っては、その収益を修繕費用に充てる活動が恒例化した。
9年間合計34回に渡るイベントで、延べ2万人程のお客様をお迎えし、ボランティアの数は1000人を超えた。 2009年3月
- 半田運河の景観保全のため、半田市が購入を検討
- 12月
- 半田市土地開発公社が半六邸を購入
建物については耐震改修に多額の費用を要するとして、取り壊し(茶室と北蔵を除く)を決定 - 2010年2月
- 陳情書を市議会に提出
- 3月
- 取り壊しに待ったをかける署名活動がはじまる。
半六邸の利活用を考える会が、8274筆の署名を集め、半田市に提出。 - 2010年4月
- 第1回意見交換会が開かれる。
「市の挙げた3つの課題」
1.耐震改修に多額の費用が掛かる。
2.活用計画
3.計画の担い手 - 2010年8月
- 市から要望され、NPO法人の取得を目指し、半六コラボが誕生する。
- 2010年12月
- 活用提案書を市に提出するも、立ちふさがる耐震問題
限界耐力計算法に望みを託す!
*《木造軸組み建築の限界耐力計算法とは?》 2000年に建築基準法に導入された、日本の伝統構法を
活かした構造計算方法。古民家や町屋の耐震性能計算法として、京都や奈良を中心に広まっている。 - 2011年3月
- 奈良から構造専門家を招いて、測定してもらい、思いの外よい結果が得られる。
- 2011年4月
- 活用計画「半六プロジェクト」を市に提出 する。8月、10月にも提出
半田農業高校環境緑化専攻生が4月から庭園の整備を始める。 - 2011年5月
- NPO法人半六コラボ設立準備委員会を開催する。
- 2012年1月
- 愛知県知事からNPO法人の認証を受ける。
- 2月
- 半六プロジェクトの計画書と予算書を提出。市から建物の無償譲渡と土地の目的外使用の条件を提案される。
- 5月
- 半六プロジェクト最終バージョンを完成させ市に提出
- 7月
- 第2回意見交換会が開かれる。事業スキーム・計画の大筋の合意を得る。
- 8月
- 半田市長が半六邸の活用に向けて新聞に発表